意外と知らない横浜

横浜の歴史や事件、関係が深い人物の説明や観光スポットの紹介。

井土ヶ谷事件・文久三年に起きたフランス士官殺害事件


文久三年(1863年)10月14日生麦事件から1年が経った昼過ぎに武州久良岐郡井土ヶ谷村字下之前(横浜市南区井土ヶ谷下町3付近)でフランス士官殺害事件が起こります。

文久三年に起きた井土ヶ谷事件の概要 

 

横浜居留地の警備のため山手に駐屯していた、フランス陸軍のアフリカ連隊付の少尉アンリ・カミユ(J.J.Henri.Camus)は2人の同僚士官と共に乗馬を楽しんでいましたが、
居留地から馬で井土ヶ谷村へさしかかった所で先頭にいたカミユは浪士2名に襲撃され、それを見ていた仲間の士官は恐怖で震え上がり、馬首を返して逃走したそうです。

 

いきなり飛びかかった浪士は一刀のもとに右手を切り落とした。
あまりにあざやかな太刀筋だっため、右手は手綱を持ったままの状態だったと言われている。
さらに、顔や首、胴、左手を切り付けられ、驚いて立ち上がった馬から落馬し、カミユはほとんど即死の状態で絶命した。
すぐにその場を立ち去った浪士は、池の水で血の付いた刀を洗い流すと弘明寺方向へ逃走しました。

 

井土ヶ谷事件の後、神奈川奉行並合原猪三朗は捜査を開始しますが、この事件も又逮捕に至りませんでした。

 

フランス公使デュシエーヌ・ド・ベルクールは、井土ヶ谷事件や同年5月に起きたフランス船キンシャン号賠償問題を本国で交渉するために、日本の特使をフランスへ派遣するよう幕府に勧めてきました。

 

国内には孝明天皇をはじめ強靭な攘夷論を唱えるものが多く
朝廷は幕府に対したびたび攘夷を督促しています。
そこで幕府は江戸に近い横浜から外国人を締め出そうと考え、開港したばかりであった港を鎖港し、貿易は長崎と函館にする計画を検討することにしました。

外国側が認めるはずもない計画ですが、国内的には横浜鎖港問題の交渉のためという口実を作り、文久3年12月25日に横浜出帆のフランス軍艦ル・モンジュに使節団を搭乗させパリに向かわせます。

 

ところが池田長発率いる一行は当初の計画であった横浜鎖港問題に関しての取り決めは問題にされず、井土ヶ谷事件の一件はカミユの父親に3万5千ドルの扶助金を支払う事で同意し、キンシャン号の件は幕府10万ドル、長州藩4万ドルという賠償金を背負い込んだのです。
そのほかにも、下関海峡でのフランス船艦通行の安全確保と輸入関税の軽減を図るという取り決めで調印したために、
帰国した池田長発らは使命を果たさなかったとして幕府により処罰されています。

 

井土ヶ谷事件の犠牲者であるH・カミユの亡骸は横浜外人墓地16地区に埋葬されています。

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Updated: 2015年5月20日 — 3:00 PM


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