意外と知らない横浜

横浜の歴史や事件、関係が深い人物の説明や観光スポットの紹介。

鎌倉事件・1864年攘夷論を唱える人々


生麦事件が起きたのが文久2年(1862年)8月21日、その翌年の文久3年(1863年)9月2日に井土ヶ谷事件が起きています。

 

鎌倉事件の概要

 

井土ヶ谷事件が起こった翌年の元治元年(1864年)10月22日の正午頃に、
外国人にも名所として知られていた鎌倉にある長谷の大仏から、鶴岡八幡宮に向かい馬を走らせていたイギリス陸軍第20連隊第2大隊所属の士官2名が、木陰からいきなり飛び出してきた浪人に斬りつけられました。
ジョージ・ウォルター・ボールドウィン少佐(34歳)は即死、ロバート・ニコラス・バード中尉(23歳)は瀕死の重傷を負います。

彼らは横浜の外国人居留地から鎌倉見物に出かけ、午前11時前に江ノ島に到着しました。
その後、鎌倉の大仏を見学し居留地へ戻る途中の出来事です。
当時大仏は外国人にも知名度が高く、大仏の胎内に落書きを残した者も多かったそうです。

二人は大仏を見終えたあと馬に乗り、ゆっくりと六地蔵の茶屋を通りすぎます。
八幡宮へと続く通りが目の前にせまった時に2名の侍が松の木陰から突然飛び出してきました。
先頭にいたバード中尉が先に斬りつけられ落馬し首や肩、手などを斬られ重症を負い、ボールドウィン少佐は背中や顔、手などに傷を負い背中の傷が致命傷となりほぼ即死に近かったようです。

事件の少し前に2人の浪人に出くわしていた大町村の少年、兼吉(11歳)が惨劇の様子を目撃していましたが、のちに恐怖のあまり体が震え見ていられなかったと証言しています。

襲撃は午後2時頃に起こり、バード中尉は夕方までは息があったそうです。

ここ数年に起きた相次ぐ外国人殺傷事件に幕府への不信と憤激が各国の代表たちにまき起こり、
イギリスのラザフォード・オールコック公使は幕府に、未だに1人の逮捕者も捕らえていない現状に対して、12ページにわたる抗議書を送りつけています。

幕府は各国の抗議をやわらげるためにすぐにでも犯人を捕らえなければならない状況にありました。

その後の調べで2人を殺害した犯人は年の若い浪人風の男で、江戸に潜伏している事が判明します。
事件から2週間経った11月3日の夜に高取郡羽島村の名主、八郎右衛門の家に3人組みの強盗が押し入り主人を脅して150両の金子を強奪しますが、
その金の中に名主家の極印を打ったものが混ざっていた事や、犯人の1人が犯行を人に語った事から足がつき、2人が逮捕されます。

両名の名は蒲池源八と稲葉丑次郎
2人の自供から逃げているのは清水清次という鎌倉英人士官殺害事件の主犯である事が判明する。

明治初期の戸部刑場

幕府は各国に対して面目を立てようと殺害事件とは関係がない2人を横浜の戸部刑場で処刑し、外国側にも立ち会わせる事にしましたが、
当然のごとく鎌倉事件とは直接関係がない不明確な処刑は各国に疑問を与え、よりいっそう真犯人の逮捕を求める声が強まる結果となってしまった。

事件から1ヶ月後の11月29日、処刑された2人が真犯人だと語った清水清次は江戸のはずれ千住の遊郭で逮捕されます。

清次は遠州(静岡県)金谷の生まれで、父が浪人であったために各地を転々としながら暮らしていた。
10歳の時に父と別れ飛脚や荷物もちなどを生業として生活していたそうです。
しかし、自国に多くの外国人が往来するようになると次第に皇国の地が汚れて行くと思い込むようになり、外国人を心底憎み始めます。
また、1人でも外国人を殺せば志を同じくする仲間たちから尊敬され賞賛をもって迎えられると確信していた。

志を果たすために横浜に向かい
道中で道ずれになった高橋藤次郎という若い侍も襲撃に参加する事となり、二人で鎌倉へ向かい犯行に及んだわけである。

逮捕された清次は江戸から横浜の牢屋に護送され、現場で犯行を見ていた少年兼吉ら3人が呼ばれて面通しが行われた後、戸部から外人居留地まで4時間にわたって市中を引き廻された。

処刑は翌日の30日午前10時ごろに戸部刑場で行われたが
清次は落ち着いた様子で「侍が夷狄を殺して処刑されるとは日本も惨めなことになったものだ」と慨嘆し「とらわれて死ぬる命はおしからず えみしをはらうやまとごころに」という辞世の句を残したという。

 

夷狄(いてき)
未開の民や外国人。野蛮な民族。異民族の蔑称

 

首は外国人の往来が多い吉田橋に晒された。

 

一方の共犯者の名は高橋藤次郎との事であったがそれは清次が偽った架空の名前であり、本名は間宮一(18歳)10ヶ月後の慶応元年7月に内藤豊助という旗本の家来になっていたところを逮捕された。

生まれは武州久良岐郡雑色村で一向宗の寺の三男に生まれているが
間宮は寺を毛嫌いし武士になる事を夢見て16歳で還俗、鎌倉の医師のところへ養子となる。

 

還俗(げんぞく)
僧侶になった者が戒律を堅持する僧侶である事を捨て在俗者、俗人に戻る事をいう。

 

義理の父親と江戸に出るのだが、義父が失踪してしまったために結局は実家に戻ることになった。
間宮も清次と同じく外国人を毛嫌いしていて夷人を殺し鬱憤をはらそうとしていたところへ二人が出会い犯行に及んだのである。

間宮も慶応元年9月10日に清次同様、市中引き廻しの上、首をはねられ吉田橋に晒された。
しかし、
清次とは違い、臆病な性格であったようで斬首の前に元気付けに酒を飲まされると泥酔して大声だしはじめ手に負えなくなり、処刑場まで引きずられたあげくに泣き出し
結局処刑所の一角にある小屋で首を刎ねられたのである。

辞世の句は
「年旧とも色香替らぬ皇(すめらぎ)の 御国に返す赤き心を」
「消えていく霞の命をかけてしも枯らし尽くさん夷(えぞ)の醜草(しこくさ)」

 

山手外人墓地21地区には殺害されたイギリス人バード中尉とボードウィン少佐が並んで眠りについている。

 

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Updated: 2015年5月20日 — 3:02 PM


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