意外と知らない横浜

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ヘボン・ローマ字とヘボン塾


ヘボンは文化12年(1815年)に北米ペンシルべニヤ州で生まれています。
プリンストン大学からペンシルベニヤ大学の医学部を卒業後、長老派教会に属して中国のアモイでの伝道に専念しますが、1845年に夫人の病により帰国します。

ジェームス・カーティス・ヘボンの生涯

ニューヨークで開業医として従事していた時に、日本が鎖国を開いた事を耳にしたヘボンは、自ら日本伝道に赴くことを申し出て、安政6年(1859年)に日本に到着しました。

クララ夫人、ブラウンとともに成仏寺本堂に住みながら、宗興寺で施療を開始するも幕府から中止を申し付けられてしまいます。
3年後の文久3年(1863年)に横浜居留地39番地(現 横浜市中区山下町)に居を移し、施療所を開いて名士多数のほか大衆の診察を始めるとともに、ヘボン塾を開きクララ夫人と一緒に英語を教え始めています。

ヘボン式ローマ字とヘボン塾

語学知識にも長けていたヘボンは、岸田吟香など日本人を助手として、1867年に日本語約2万700に解釈を加え、ローマ字、漢字、仮名を付した「和英語林集成」を著しました。
これが日本で最初の和英大辞典です。
明治7年(1874年)から新約聖書の翻訳に取り掛かりヘボン式のローマ字表記法を考案しました。
この間にヘボン塾からはたくさんの人材を輩出しています。
日銀総裁・総理大臣を務めた「高橋是清」、三井物産の創始者である「益田孝」、そのほかにも「林薫」、「三宅秀」、「沼間守一」、「大村益次郎」などがいます。
1970年に宣教師キダーがヘボン塾へ着任しましたが、2年後に独自の女子教育を行うために女子塾を開設しました。
これは後のフェリス女学院へと発展していきます。
高橋嘉右衛門も学校を開設した事もあって、ヘボン塾は一時衰退していきますが、1875年にバラ(元 高島学校教員)が教授陣に加わり、ヘボン塾はバラ学校と呼ばれ親しまれていました。
しかし、明治13年(1880年)にヘボン塾は東京築地に移り、この教育事業を東京の築地大学校に移管することとなりました。

ヘボンの晩年

その後ヘボンは明治25年(1892年)に、横浜を去るまで横浜居留地に住み続け、旧約聖書翻訳委員長として尽力し、横浜指路教会の建設にもあたっています。
日本に33年間滞在したヘボンはアメリカへの帰国を前に、白金の明治学院での送別会にて次のような言葉を残しています。
「私は誠に此三十三年間、此国に駐まって、日本の人を助ける力を尽しましたることを神に感謝します、嗚呼私は本国に帰ります、私の仕事は終りました、本国に少しの間休みまして天にある親たちの国へ参ります。」

クララ夫人は、明治39年(1906年)3月4日に88歳にてこの世を去り、ニューヨーク州に戻ったヘボンは、明治44年(1911年)9月に96歳で生涯を終えました。
日本政府はヘボンが90歳の時に日本に尽くした功労に対して勲三等旭日章を贈っています。

 

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Updated: 2015年5月20日 — 3:40 PM


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