意外と知らない横浜

横浜の歴史や事件、関係が深い人物の説明や観光スポットの紹介。

コープランドとスプリングバレーブルワリーのビール


横浜が開港してから5年後の元治元年(1864年)にドイツ人醸造技師からビールの醸造法を学んだノルウェー系アメリカ人の男が横浜港に降り立ちます。

 

コープランドの人生

 

男の名はウイリアム・コープランド(30歳) 1834年(天保5年)1月11日に、ノルウェー南東部の町アーレンダール生まれ。
日本に来て牧場経営や運送業を営み、資金を蓄えるとビール醸造に乗り出すのである。

 

開港当時の横浜

 

当時、横浜居留地では300人以上の外国人が住んでいた。
生活に必要な品は、ほとんどアメリカからの輸入に頼り、ビールも例外ではなかった。
ドイツ産のビールは当時の金額で10万円にも達しており、82番に店を構えるJ・カルノー商会がイギリス製バスビールを輸入したところ、日本人にも好評だったため各国商館は競って自国のビールを輸入しはじめました。

その頃の横浜ではイギリスとフランスの軍隊が駐屯しており、ビールの需要は多く当然の成り行きで、横浜でビールを作る計画が持ち上がります。

タイミングよく、この時期に横浜に来ていたコープランドは、横浜山手周辺を歩いていた時に、目の前に周囲200mほどの池(天沼)に清水が流れ込んでいるのを見つけると、「この泉はビール醸造に使えるのではないか」と考えたのである。
この時コープランドは35歳、山手123番に「スプリング・バレー・ブルワリー」 日本名、清水谷醸造所を建設します。

コープランド醸造のビールは居留地向けに50ガロンの樽詰にして売り、残りは自宅を改造したビアガーデンで大ジョッキ1杯20銭、小は10銭で外国船の船員相手に販売していました。
日本人はまだビールの味に馴染めないながらも、地元の人たちからは「天沼ビア酒」と呼ばれ評判がよかったそうです。

 

スプリング・ヴァレー・ブルワリー

 

明治5年(1872年)に新橋ー横浜間に鉄道が開通すると、東京へ運ばれ船で函館や神戸、長崎など各地へと運ばれた。

同年、コープランドは一度ノルウェーに一時帰国し、リルレサンの教会でアンネ・クリスティネ・オルセン(15歳)と結婚し、再び横浜に戻ってくるのである

コープランドの醸造所は人力と馬力に頼り、まだ機械が使われていなかったが彼は研究熱心で、明治10年(1877年)にいち早く瓶詰めビールの低温殺菌法を導入し、技術者としての面目を示している。

 

 

 

彼のビールには「バーバリアン・ビアー」「ラガー・ビアー」のラベルが貼られた。
現在の麒麟麦酒の前身は「スプリング・ヴァレー・ブルワリー」なのである。

麒麟麦酒会社50年史によるとコープランドは、日本で最初に麦酒工場を創設した人物として紹介されている。
ところが「ジャパン・ガゼット横浜50年史号」J・L・Oイートンの記事をみると、
「横浜で初めて開業した麦酒工場は、ジャパン・ブルワリー山手46番地にあったがすぐにつぶれ、コープランドが醸造所を起こした。
次がゲーテ座の館主として知られているオランダ人のヘフトで、ドイツ人の醸造技師を雇ったが冷却装置を欠いていたために失敗し、スプリング・ヴァレーが最後に残った」と書かれている。

ドイツ人、E・ヴィーガントはジャパン・ブルワリーで支配人兼醸造技師として務めたが、経営者とソリが合わずに退職し、ヘフトが経営する醸造所に移るが、そこでも衝突して帰国してしまう。
だがヴィーガントは2年後に再び来日し、明治8年(1875年)5月に首にされたヘフトの醸造所を借りて自分ではじめることとなる。
コープランドの醸造所とは400mと近く何かと競合することになったため、2人は話し合いの末、ひとつの会社とし「コープランド・アンド・ヴィーガント商会となった。

 

落魄の晩年

 

明治12年(1879年)両者の間にひびが入り、裁判沙汰にまで発展して商会は営業停止となった。
この年にアンネ夫人(22歳)が病死しています。

コープランドは工場を競売で落札したが、巨額の借財を背負うこととなった。
裁判による信用の下落も打撃となり、ついには資金繰りに行き詰まり手放してしまう。
ビール工場は新会社「ジャパン・ブルワリー」の所有となります。

その後もコープランドはビール業界への再起を図るも明治21年に断念する事となる。

翌明治22年に箱根芦ノ湯の旅館伊勢屋の経営者である勝俣清左衛門の次女、ウメ(20歳)と再婚します。

明治26年に2人でハワイに渡り、さらに2ヶ月後には中米グァテマラにあるサンホセで商売するも失敗に終わり、持病のリュウマチや心臓病にも悩まされるようになった。

明治35年1月に妻に支えられながら日本に戻って来ますが、この年の2月11日に68歳でなくなっています。

ジャパン・ブルワリー社は葬儀費用198円5銭を払い、未亡人には慰労金を贈ったのである。

現在、夫妻は横浜外人墓地の2区に眠っています。

 

関連記事


スポンサーリンク

Updated: 2015年5月20日 — 3:03 PM


投稿日:
意外と知らない横浜 © 2015 Frontier Theme
/* get_the_modified_time()の結果が get_the_time()より古い場合はget_the_time()を返す。 同じ場合はnullをかえす。 それ以外はget_the_modified_time()をかえす。 */ function get_mtime($format) { $mtime = get_the_modified_time('Ymd'); $ptime = get_the_time('Ymd'); if ($ptime > $mtime) { return get_the_time($format); } elseif ($ptime === $mtime) { return null; } else { return get_the_modified_time($format); } }