意外と知らない横浜

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原三渓は横浜の発展に尽力した人物で本牧に住んでいました


三渓園は横浜市中区本牧にある庭園で原三渓により造園されたものです。

三渓の生涯

 

原三渓(本名は富太郎 雅号 三渓)は、1868年(慶応4年8月23日)10月4日に
青木久衛(33歳)と琴(21歳)の長男として、岐阜県厚見郡佐波村に生まれています。
久衛にはすでに死去している前妻との間に、ますゑという女の子がいるが33歳にして初めて男児を得た事に、たいそう喜んでいたそうである。
長男として生まれた富太郎は、4歳の時には百人一首を諳んじていたほどで、6歳の時に仮小学校に入り、翌年の明治7年9月17日に尚友義校に入学。
卒業試験を迎える頃には傑出した才能の持ちと主なり、
下等小学校を卒業し、上級へと進学するも上等5級で退学し、より高度な私塾へと進んでいく。

日置江(ひきえ)村の私塾へ入門中に、優秀な同級生たちと出会う事ができた富太郎であったが、儒学者として名を知られている野村藤陰が、大垣で鶏鳴塾を開いている事を聞きつけるとすぐさま入学するのである。

しかし、鶏鳴塾での教育はすばらしく環境も悪くないのだが、改めて自分に合っているのは日置江の東山先生である事を確信したため、
野村藤陰に礼を尽くして退学の意を伝えます。

日置江村の私塾へ戻った富太郎は、この頃から絵画に興味を持ち始め、寿山という画家より本格的な教え受けながら画の才能を開花させていきます。
15歳になった頃に私塾を辞めたあと父の家業を手伝いながら、書や画の制作に没頭していく。
明治17年16歳の時に、岐阜で開かれた絵画共進会に作品を出品している。

翌年17歳になった富太郎は、東京へ行く事を決意して笠松港から船に乗り上京すると、
大隈重信の理想の下に設立された東京専門学校(早稲田大学の前身)へ入学した。
政治学と経済学を学ぶと同時に跡見女学校の歴史の先生をしていたのだが、のちに運命的な出来事が起こる。

 

ヤスとの出会い

 

明治22年7月1日岐阜から帰京したばかりの富太郎は新橋駅にいた。

その時一人の可憐な女性が目の前を通りかかる。
富太郎が見とれていると、女性の履いている下駄の鼻緒が切れてしまったのである。
すぐさま富太郎は駆け寄り、懐から手ぬぐいを取り出して手際よく鼻緒をすげ替えてしまう。
女性は頬を赤らめて丁寧に礼を述べた。
どこか見覚えのある顔だと思い訊ねてみると、彼女は跡見女学校の生徒で富太郎の教え子だったのである。

彼女の名は原屋寿 原家の一人娘である。この偶然の出会いから二人の交際が始まるのだが、富太郎も長男ということもあり容易く結ばれるとは思えなかったが、跡見女学校の創立者である跡見花磎が間に入り、まず最初に富太郎と二人で岐阜佐波村にある青木家に向かった。

花磎の心配は杞憂に終わり、父親の久衛は物分りの良い人物で富太郎を笠松の港で見送った時に、自分の手に戻る事はないであろうと覚悟を決めていたそうである。
いがいにもすんなりと話がまとまった事に安堵し新橋に戻ると、数日後には善三郎との話し合いが待っているのである。

裸一貫から身を起こし大成功を収めた善三郎から見れば、どこの馬の骨かも知れぬ男に愛孫をくれてやる気は毛頭なく、屋寿から聞かされていた男については心を許してはいなかった。
花磎が指定した場所へ向かいながらも、絶対に断る気でいたそうである。

ところが部屋の障子を開け悠々と下座に座っている富太郎をひと目見たときに、なんとも美しい青年であることかと感じていた。
この男ともっと話がしたくなった善三郎は、いつのまにか初対面であるにも拘らず自身の事業の事や悩み事まで話し始めている。
富太郎も自分を繕おうともせずに本気で善三郎と向かい合っていた。
善三郎はいつのまにか富太郎の事を気に入りはじめ、しまいにはこの魅力的な青年に、善三郎の方から養子に来て欲しいと懇願するほどになったそうである。

こうして、明治24年6月3日に横浜市老松町の原家の邸にて結婚式が挙行されました。

 

富岡製糸場

 

その後善三郎は国会議員まで上り詰めたのち、明治32年(1899年)に亡くなっている。
明治33年の4月28日には、野毛の老松町八幡祠境内に善三郎の銅像が完成した。

翌年になると富太郎は横浜毎夕新聞を創刊し、続いて生糸日報を発刊した。
先代から生糸商店「亀屋」と銀行の経営権、渡瀬製糸工場を受け継いでいたが、ここから富太郎の改革が始まる。
横浜のために、生糸貿易のために尽力をつくし、妻、屋寿に救われ、励まされながら事業を拡大していくのである。

明治政府が明治5年10月に群馬県富岡に官立の製糸工場を作ったが、明治26年に民間に払い下げられ三井家が落札した。
三井はそのほかにも大崎製糸所、名古屋製糸所、四日市製糸所を傘下におさめ、一躍トップの座に上り詰めるが、経営状況は芳しくなく中上川産次郎の死去をきっかけに手放す事になる。
三渓は明治33年に絹織物の輸出業務を始め、短い期間で五大輸出商社に数えられるほどに成長させたのち、明治35年にこれらを一手に買い入れた。
同じ年に本籍を埼玉の渡瀬から横浜に移し、一家を引き連れて本牧三ノ谷へ移り住んで自らを三渓と名乗っている。

三渓34歳、屋寿28歳のことである。

 

三渓園

 

先代から引き継いだ広大な本牧の地に本宅を建て古い時代の建物や美術品などを集め庭園作りに没頭していく。
特に三重塔には思い入れが強く、遠く本牧の海からでも見える頂に配置するのである。

明治39年5月1日に三渓園は市民に無料で開放され、園内では屋寿の思いつきで初音茶屋がオープンし、飲み物のサービスも開始された。

大正4年に文豪夏目漱石、大正5年にはノーベル章を受賞したインドの詩人、タゴール一行が3ヶ月に渡り滞在している。

他にも芥川龍之介などの多くの著名人が訪れている。

 

関東大震災

 

大正12年9月1日、三渓は箱根に来ていた。
午前11時58分44秒に立っていられない程大きく地面が揺れた。
関東大震災が起こった日である。
三渓は警察署に問い合わせをしてみると、東京方面は全滅でほとんどの市民が亡くなっていると聞かされたのだが
急いで戻ろうにも道路は寸断されていて、ひたすら道なき道を湯元から小田原方面に向かい歩いていた。
そんな時、横浜から様子を見に来ていた原家の運転手と出会い、三渓園も原家の皆様もご無事ですと聞かされて安堵する。

その後もひたすら歩き続け横浜を目の当たりにすると町は焼け瓦礫の山と化している。

八幡橋から小船で本牧の港に辿りつき、箱根から4日をかけて三渓園に到着したのである。
屋寿は夫を待っていた。
食料である米が底をつきそうになっていたのである。
不足している米を買い付けに行くための承諾を得るとすぐに舟で名古屋へ向かった。

数日後に1500俵を船に積み戻ってきた屋寿は自宅用と社員の家族に分配し、残りは園内に非難している人々に炊き出しとして毎日提供し続けたのである。
その様子を見ていた三渓は屋寿に称賛をおしまず、彼女の決断がなければ皆が飢えに苦しむ事になっていたかも知れないと感じた。

 

晩年

 

震災後、三渓は横浜復興会会長に就任し、横浜市の復興と蚕糸貿易の復興に心血を注いでいく。
もんぺ姿で働き、大好きな美術品の収集もきっぱりとやめてしまった。
そんな姿を見て屋寿も園内で孤児院を開設し、震災によって親を亡くした子供たち引取り世話をした。
夫妻は公共事業や慈善事業に力を注ぎ込むのである。

昭和9年に三渓は十二指腸潰瘍を患い
昭和12年病後の静養のために箱根に来ていた時に、磯子の偕楽園で息子の善一郎が脳溢血で急逝した事を知らされる。

昭和14年には孫の恭二郎が徴兵され二度と戻る事はなかった。

三渓は別れが大の苦手であった。
大好きな人との惜別に耐えられないのだ。
岐阜の両親の葬儀にも行かなかった。
親友の葬儀にも病気を理由に欠席し、長男善一郎の顔もついに見る事はなかった。
妻の屋寿はそんな夫の性格をいとおしいと感じていたそうである。

 

昭和14年、三渓園に夏が訪れた頃、三渓は病床に伏していた。
7年前の腸の疾患が再発し、肉体はすでに蝕まれている。
8月に入ると医師たちも泊り込みで待機するようになり、13日の朝には急性肺炎を起こし三渓も死期が迫っている事を悟る。
昭和14年8月16日三渓は屋寿に見守られながら70歳の生涯を終えたのである。

 

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Updated: 2015年5月20日 — 3:04 PM


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