意外と知らない横浜

横浜の歴史や事件、関係が深い人物の説明や観光スポットの紹介。

モレル・鉄道建設の父


エドモンド・モレル(1840~1871)はイギリス人技師である。
1840年11月17日にイギリスはロンドンのセントジェームズ広場のイーグル・プレイス通り1番地で生まれました。
父、トーマスと母、エミリーはイタリア製商品の卸売りとワインを商っていたそうです。
1人息子のモレルは16歳でキングス・カレッジスクールに入学するが、この時の住所がノッティングヒルである。
ノッティングヒルはロンドン西部に位置する高級住宅地で、映画「ノッティングヒルの恋人」の舞台となった地域です。

その後、1862年2月4日に5歳年下のハリエット・ワインダーと結婚している。

 

鉄道建設の父

 

蒸気船オレゴニアン号が横浜港に到着したのが1870年(明治3年)4月9日の事。
多くの乗客に混じって頬髯を生やした男が横浜に降り立った。
彼の名はエドモンド・モレル29歳。
ボルネオ領のラブアン島で石炭輸送用の鉄道建設工事に従事したあと、日本へ赴いて鉄道建設の指導をするという重要な役割を担って、はるばるやって来たのだった。

モレルは東京で伊藤博文ら高官と面会をし、鉄道と電信建築師の指導者としての契約を結んでいる。
東京⇔横浜間の26kmの鉄道敷設は急務の事案で、モレル自身も東京へ向かう際に駕籠に乗って7時間もかかっていたのである。

 

鉄道利権

 

1854年(安政元年)にペリーが2度目の来航の際に日本人は初めて蒸気機関車を目にする事となる。
持参した小型の機関車模型を実際に走らせて役人が客車の屋根にまたがったそうだ。
当時の日本においては鉄道を敷設する事は国家的な重要課題のはずだが、西郷隆盛や副島種臣らを中心にした反対派が大勢いたようである。
なんとしても利権が欲しいアメリカは幕府に対して鉄道敷設の具体案を提示し、幕府から江戸⇔横浜間の鉄道建設の権利を獲得するが、1867年(慶応3年10月14日)11月9日にその幕府が倒壊(大政奉還)してしまう。

まもなく新政府に変わりアメリカは再度、履行を迫ってくるのだが、この時に辣腕と名高いパークス英公使を陣頭にイギリスが参入して来たために、アメリカ、イギリス間において互いに譲らぬ利権争いが始まった。
しかし、不幸にもアメリカは本国で南北戦争が勃発したために、この利権争いから手を引く事となり、イギリスが苦労せずして権利を手にしたのである。

1869年(明治2年)に岩倉具視、伊藤博文、大隈重信らが出席した日本政府とパークスとの間で鉄道建設が協議された。
パークスは資金の少ない日本政府の足元をみて、予算総額300万ポンドのうち100万ポンドを借款としたうえに、技術者の雇用、給料の支払いなどをイギリス側に一任するように提案した。
さらにこの借款を担保として中国貿易の関税と将来の鉄道利益をも要求している。

 

鉄道技師モレル

 

1866年(慶応2年)26歳になったモレルは北ボルネオにあるラブアン島に渡った。
石炭の採掘と輸送に鉄道が必要になっていたため、採掘会社に雇われたが
十分な労働力を確保できないうえに治安が悪いこともあって、作業半ばで島を離れる事となる。
また、1869年には結核にかかりオーストラリアに赴き顧問技師となっている。
そして翌年の1870年、体に不安を覚えながらも横浜に赴任するのである。

モレルは仕事熱心で誠実な人柄のため日本人にも評判が良かったという。
新技術や知識を教えることに積極的であったが激務が続いたため結核の症状が急速に悪化していたようだ。

来日した2ヶ月後には妻のハリエットを日本に呼び、1871年(明治4年)9月に政府に2ヶ月の休暇を願い出た。
政府は許可を出し療養費5千円を下賜したのだが、4日後の9月23日の午後1時
モレルは急死してしまう。
30歳の若さであった。
さらにモレルが亡くなった翌日にはハリエットが癪をおこして倒れてそのまま帰らぬ人となってしまった。
夫人も25歳の若さである。

2人の亡骸は横浜山手外人墓地に埋葬されている。

 

高島嘉右衛門

 

野毛町海岸(現在のJR桜木町駅)を横浜の停車場にして青木町(現在の神奈川区青木)~石崎(現在の西区石崎)までを埋め立てて線路用地とすることを決定し、残りの部分を貸与する条件を付けて入札を行ったところ、実業家の高島嘉右衛門が落札した。
彼はいち早く日本政府に対して鉄道の重要性を訴えていた人物で、落札後は突貫工事によって工事を竣工させて、現地に自らの性である高島町の名をとどめた話は有名である。

 

広軌と狭軌

 

鉄道をを敷設する際にはレールの間隔を決めなくてはならないのだが、ゲージの幅には標準軌の他に広軌と狭軌がある。
軌間(ゲージ)が広いと輸送力や安定性が高まるがコストがかかる。逆に狭くなると費用が安く済む。
新政府が狭軌を選択した表向きの理由には当時、鉄道頭に就いていた井上勝が「広軌で敷設するより狭軌でより長く造る方が国益が上がる」と主張していたとされるが
実はロンドン公債より得た100万ポンドのうち実に2/3を鉄道資金に回さずに、膨大な債務処理に流用してしまったためというのが真相らしい。

 

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Updated: 2014年9月5日 — 3:55 PM


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